K市の国立病院へ入院する
お正月の間に作った荷物を持ち、娘に付き添われて入院する。 案内された病室は4人部屋の出入り口の傍のベッドだった。
そして入院中ずっと仲良くしていただいたOさんが、はす向かいの窓際にいた。
Oさんも頚椎固定手術をされるそうで、とても心強く思ったのを覚えている。
年齢は私より大分お若いのだけど、しっかりした方でプライベートな話しも気楽に話せ、精神的にどれだけ助けられたか分からない。
手術をするまで、いろいろ検査はあるけれど、それ以外は何も無くブラブラしていたが、3週間目に入りいよいよ手術の準備に入る。
1階の床屋さん(この病院には床屋さんがある)で、後頭部を刈上げ状態に散髪する。
それからどのような手術をするのか部長先生(日本一脊椎の手術をてがけていらっしゃるという)から説明があり、
夕方処置室へ来るように呼び出される。
ハローベストをつける
処置室へ行くと、整形外科の先生が全部集まったかと思うほど大勢居られて、まず、小さな椅子に座るように促される。
座るとすぐ目隠しをされ「心配いらないからね」の声にぐるりと先生方が囲まれ、頭を押さえる先生、
肩を押さえる先生達でがんじがらめになる。
額や頭に数カ所、局所麻酔をしてハローベスト(頭が動かないように、胸から頭にかけて装着するもの)のボルトを付ける。
覚悟をしていたし麻酔のおかげで痛くないし、私としてはどうということは無かった。
というのも、いつもOさんが先にされるので、様子を見たり聞いたりしていたので、これが私を落ち着かせたのです。
しかし娘からは「もうお母さんは大げさなんだから、Oさんを見習えば?Oさんはいつもひょうひょうとしているよ」と言われていた。
そして処置室から帰るとすぐ部長先生が来られて「そのネジは骨の中まで入ってないからね、心配しないように」と言われる。
中には動揺される方もおられるようだ。
特に男性は、怖がる人が多いらしい。
娘は私の姿を見て「気象衛星ひまわり」だとか「宇宙人」と言って茶化す。
このハローベストを付けて寝るのが一苦労で、付けた2.3日は座ったままで寝る。
良く眠れないので日中も、うとうとすることが多かった。以後2.3回ネジの締め直しをすることになる。
そして、手術前の先生の家族を含めた説明の時、「心配はいりませんが100パーセントとは言えません、
確率として飛行機が落ちる程度の危険性はあります。」と言われる。
当時よく飛行機墜落の事故があり「えっ」と思ったのも事実です。
おつかれさま〜コーヒーを飲んで休憩してね もうあと少しですよ
いよいよ手術
手術の前夜トイレへ行って便器を見ると、真っ赤になっていたのでびっくりしてナースに知らせる。
どうやら30年も前に患った痔が切れたようだ。
ストレスがピークに達したのだろうか。急遽 薬をいれてもらって急場を凌ぐ。
そして翌日手術となり、気持ちはもうまな板の鯉。 もちろん全身麻酔でなにも分からないが、
手術が終わり名前を呼ばれてうっすらと気が付いた時のあの体のだるさは、今まで経験した事のないだるさだった。
手術の前の日に変わっていた部屋に戻るとしばらくして、激しい嘔吐が次から次へ襲ってくる。
術後の嘔吐はいつも私につきものだけど、今回は嘔吐も激しいし第一横を向けない。
もちろん上体はびくとも動かない。動くのは左右の肘から先だけ。
なんとかナースコールを押すことが出来たが、肘が痛いのでいつもナースコールをお腹の上で握っていた。
しかし嘔吐が襲ってくると、ナースコールが間に合わず、鯨の潮吹き状態。
手術した当夜、娘達が帰ってしまった後の心細さといったらなかった。
いくら完全看護と言ったって、一晩くらい泊まってもらいたかった。
それに術後は元の4人部屋に戻されるが、部屋の人の大きな笑い声や話し声が途絶えることなく聞こえ、
どれだけ神経に障ったことか。 でもこれから退院するまで、付き合わなければいけない人達なのでぐっと我慢する。
後で「どんどん話して患者さんの気を紛らしてあげてください」とナースからいわれたそうだ。逆効果です!!!
手術の翌日、病室に来られた先生にいきなり丸太ん棒のようにごろんとひっくり返される。
なんの説明もないまま、しばらくすると耳の傍で大きな音が・・・
音から推測するに、どうやら電動ノコギリで何か切っている様子である。
終わると又ごろんと上を向かされ、先生達はさっさと引き上げて行った
隣のベッドの人が「なにをしたの?」と聞いてきたが、丸太ん棒状態の私には「さぁ?」としか答えられない。
後でナースから石膏を外したと聞いて、あの大きな音の原因がよく分かった。
それなら一言云って欲しい、私は物じゃないんだから。
それから1週間、右にも左にも向けないので、じーと天井を見ていると部屋がグルグル回り出したり、
天井と床がぐるっとひっくりかえるような感覚に陥ったりする。
頭の中を虫が下から這い上がって行ったり、横切ったりする感じもする。
Sというナースが「我慢しなくてもいいのよ」と優しく言ってくださったのが嬉しかった。
こんなことは覚悟のうえと一切泣き言をいわなかったのでなお更だった。
2.3日は水分補給だけですこしずつ重湯から摂れるようになる。
1週間経つとベッドに起き上がりそろそろトイレに行けるようになった。
動けるようになると、おっちょこちょいの私は元いた部屋へ元気になった顔を見せに行った。
その帰りの事、出口に置いてあった車椅子につまずきしりもちをついてしまう。
躓いた瞬間、これで転んだら首は一体どうなるのか、
足に人工関節が入っているし、おおごとだな、という思いがあたまを駆け巡った。
幸い近くにいたナースが駆け寄り、抱えられ車椅子で病室へ帰り、念の為レントゲンを撮る。
幸いな事に、首・足ともに異常なくただお尻の骨にひびがいっただけで済んだのには、胸をなで下ろす思いだった。
結局、お尻の骨のひびは治るまで3ヶ月かかるのだが・・・
術後、2週間してハローベストを外していただき、フィラデルフィアカラーよりもっと硬質の、白いカラーを装着することになる。
この白いカラーは硬いので、肌が当たる部分の皮が剥けて痛い。
ガーゼを当てて保護しても顎だけはどうしても動かさないと食べられないので困った。
その頃、仲良くしていただいたOさんが退院されることになって、嬉しいやら寂しいやら複雑な気持ちでお送りする。
彼女はお母さんもリウマチで、遺伝ではないと言うものの、なりやすい体質は引き継ぐのだろうか?
会報誌の記事にショック
そんな時、娘がリウマチ友の会の会報誌を持ってきてくれた。丁度その号は頚椎の特集で、読んでいくうち頚椎の手術をした人は、
ほとんどの人が5年以内に寝たきりになるという統計が出ていた。
だからその記事を書いた先生は、固定手術は出来るだけしないで、カラーをはめて様子を見る方針らしい。
今ごろそんな事言われても、もう手術しちゃったんだからしようがないよ。
その上、リウマチ患者の平均寿命が65歳だって。
あ〜私は5年ほどしたら寝たきりか、もしかしたら死ぬんだなぁと思った。
めでたく退院
そして1週間後私も退院を促されるが、この状態で一人暮しの我が家に帰って何が出来ると言うんだろう。
しかし、入院予定患者が目白押しなので、どうしてもと言うなら転院して欲しいと言われ3月20日、しぶしぶ退院する。
頚椎を固定すると、身体のバランスが取り難い。背中から頭のてっぺんまで太い棒が入っているようで、おまけに右も左も向けない。
向こうから急ぎ足の人が来たり、子供が走ってくると立ち止まって避けてやりすごす。
もし身体の一部分でも触れればたちどころに、転倒間違い無しだからー
以後、家で3回転倒するがいづれも骨折に至らなかったのは不幸中の幸いかもしれない。
私の世話をしに、遠い所から娘が車で通ってくれたので助かったが、ヘルパーさんに頼めることが分からなかったのは非常に残念だった。
それから暫くして介護保険が始まった。 あれから丁度5年経ったが、まだ私は寝たきりでもないし、元気でとても死にそうに無い。
きっと統計ではパーセントにも表れないほどの、数少ないタイプなんでしょう。
額の傷跡も小さくてよく見ないと分からない程度で、医学の進歩をしみじみと実感している。
「もう直ぐ死ぬ、もう直ぐ死ぬって言ったのはだれだっけ」と娘が言うのに対して「さぁねぇ」とシラを切っている私です。
今年の春、Oさんからきれいな絵手紙が来た。彼女もどうやら元気そうな様子、よかった、よかった。
私はリウマチの仲間が、元気でいてくれるのが一番嬉しいのです。
すべてのリウマチ患者さんが、明るく生き生きと暮らせますように、という願いを込めて終わりとします。
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